Auto♏atic Lie.

オタクは勝手に考え拗らせ、思考の糸を縺れさせる生き物

Automatic Lie.

こんにちは。

今回は、前々からやってみたいと思っていた「ブログ名をタイトルにした記事を書く」というイベントに参加させていただいた形になります。開催日程とかもまったく知らずにいたので、遅刻と言うよりか後乗りの便乗も便乗ですが、よろしくお願いします。

 

 

さて、本当に下描きも何にもなく、浮かんだままつらつら書きました。

文章にはなっているはず。 暇つぶし程度にでもなれば幸いです。

 

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ニラ。

 

 

《Automatic Lie.》

 

●直訳すれば、『自動ウソつき』とか『無意識の嘘』という意味。

“lie”は可算名詞なので、正しい英語の用法に則れば“Automatic Lies”または“The Automatic Lie”なんかが正しかったりする。ついでに、ピリオドもいらない。

 

まあそこは、見栄えを優先した次第。

 

 

 ◆◆◆

 

 

●私たちは皆、多かれ少なかれ嘘をつきながら生きている。

このブログだってそうだ。本名でやっていない。まあ、ユーザー名というシステムに則っているわけで、匿名も渾名もアカウント名もユーザー名もハンドルネームも、別に嘘じゃあない。でも、一種の「偽り」とは言える。

 

しかして、「本当の名前」とはなんだろう? という話にもなってくる。

 

私たちは多くの場合、親から受け継がれた苗字に親などがつけた名前、それが戸籍に登録されている。

けれど、いつのまにか渾名や、ネットやSNSのヘビーユーザーなら本名よりもそちらの名前で呼ばれることが多くなる、なんて逆転現象だって起きうる。

少なくとも私は、本名よりもハンドルネームやそこから派生した渾名で呼ばれる方が好きだ。苗字はありふれているから別に何ともないが、下の名前はそんなに好きじゃない。おっと、これも言霊になってしまうんだろうか。

 

さて。ほかに私生活で言うなら、ネット通販で買い物をするとき、女のひとり暮らしという点にどうしても不安がぬぐえなくて、届け先氏名を男女どちらとも取れる名前にするか、思い切り男性名にしてしまうときなんかもある。

 

それと、芸名と本名が全く違う著名人、有名人。タカラジェンヌや歌舞伎役者なんてまさにそれだ。訃報の際に本名が一緒に報道されて「えっ、そんな名前だったの!」と驚かされることだってある。

 

私たちを形作るもの。

そのひとつであるものが、名前。

 

問いたくなる。「名前が違っても、あなたはあなたなのか」と。「別の名でいるときのあなたは、戸籍上の名でいるときと別人になるか」と。「芸名と本名が一緒のあなたは、仕事と私生活で自己のなかに切り替えしを持っているのか」と。

 

余談だが、私の推しなどは、そのあたりの境界線がずいぶん緩いんじゃないか、としょっちゅう心配になる人なので、いくらか身の振り方がうまく姑息ささえある同業の方のエッセンスを足してほしい。と常々感じていたりする。

 

 

まあ、なんだ。とにかく、人は誰しも多かれ少なかれ嘘をついて生きているはずだ。

これは持論、考え方なのだが……。

 

なにが真でなにが嘘か?

なにが嘘でなにが真か?

 

噓から出た実(まこと)、なんて言葉もある。

 

私たちが今信じているもの、信じている世界、姿は、本当にそうあってくれているものなのだろうか?

大好きだと追いかけているものは、本当に心が求め、望み、追いかけているものなのだろうか?

 

 

たとえば私は、このブログを大元をたどれば推しへの想いを書き綴りたくて作った。きっかけとしては。

しかし、時おり思うのだ。「私は本当にこの人が好きなのだろうか?」と。

 

舞台での姿に感嘆し、活躍には歓喜し、ライブで近くに来れば狂気してしまう。見上げる私の心は喜色一色に染まり、なにもかも輝いて見える。沸き立つ感情に、きっと全身が恍惚としているだろう。トークショーやイベントでの笑顔や、よくわからん「推しらしい」あれそれに心揺さぶられ、握手やチェキがあるときにはもう心臓は限界だ。いい意味で。

 

まあ、だからきっと、好きなのだろうと思う。

 

ただし、もちろん変化は起こる。

 

相手は何百年も飾られ続ける名画でも彫刻ない。生きた人間だ。おそろしいことに、常に私たちと同じ時間を刻む、生きた人間だ。

推しだって、そのスタンスや信条が、なにかをきっかけに転換期を迎えて真逆になるかもしれない。活躍するフィールドが変わるかもしれない、方向性が変わるかもしれない、ライフスタイルが変わるかもしれない、性格が変わるかもしれない。なんなら、エンターテインメントの世界から消えてしまうかもしれない。もっと言えば、突然いなくなってしまうかもしれない。

 

そんな「もしも」に心のどこかで備えながら、推し活をしていたりするのだ。大袈裟か? そうかもしれない。そんな面倒なこと、よくもまあいちいち考えていられる、と自分でも思うのだから。

 

 

 

「本当の私」とはなんだろう?

 

そんなことを、漠然と、いつも思っている。

 

 

思えば私は、ずっとずっと自分に嘘をつきながら生きてきた。自分をだましながら生きてきた。でも、当時はそれが多くを嘘に占められた思考で意識で生活だったなんて、気付いてもいなかった。

 

簡単な話が、私はずっと「優等生でなければ」と思っていた。一生懸命勉学に取り組んで、学校ではルールを守って健全に、先生と親の言うことが絶対だと。正しい、と信じて生きてきた。自分自身それを望んでいると。

実際、一部は嘘をつき続けたが故の実(まこと)だったのかもしれないとも思う。私は勉強が好きだ。それは本当だ。

ただし、受験戦争だとかノルマだとか成績だとか、そういう追い込みがなければ、の話!

 

さて、いろいろあって。それらが瓦解する日は、突然やって来た。

そうなって初めて、自分は「選択していた」のではなく、「ほかに許される方法を知らなかった」「ほかに生き方を知らなかった」のだと気付いた。

自分が選んで信じていた、のではなく、ただそれしか知らなくて、いつだってどこか窮屈さと場違いさを感じながら、でもそれが窮屈ということさえ知らないまま、生きていた。

 

 

『虚構も真実も表裏一体』

 

とは、大好きなミュージカルのストーリーパート内の台詞のひとつだ。

ミュージカル、といってもいわゆる2.5、しかもアイドルのようなライブパートもあるという少々特殊なジャンルではあるが。

(この「特殊」、と言われる垣根がいずれなくなればいいという思いもありつつ、そもそも『舞台』とひとくちに言っても、宝塚という確立されたコンテンツや、歌舞伎、能といった区分名がある伝統芸能があり、そしてストレートプレイミュージカルバレエオペラ場所も大劇場小劇場…… とにかく裾野は多岐にわたるので、垣根ではなく区分になればいいのかなと思っている。余談。)

 

 

ふう。

 

個人的な話だが、私の祖父は「ほら吹きじじい」だった。

 

いつも、その場で作ったそれらしい嘘を、口から出まかせを言う人だった。※過去形だが、まだ存命だ。ギリギリ。

とにかく、その場がよければいい。盛り上がればいい。自分が面白ければいい。そういうタイプのほら吹きじじいだった。

 

父はそんな祖父が大嫌いだといつも言っていた。幼い頃、祖父の言うことを真に受けてさんざんな目に遭ったり、友達に笑われたりという経験を何度もして、嫌いになったのだという。

まだ人生初心者である子どもが、親の言うことをまさか嘘だと思うまい。そこは幼き日の父に同情する。

 

ひとつ、父が「私は祖父に似ている」と言って常々詰ることは少々悲しかった。

おまえは嘘ばかりつく、本当のことを言ったためしがない、と。

 

言われるたびに、ああ、私は父が大嫌いな祖父によく似ているのかと。娘として可愛がってくれつつ、そういうところを父は嫌っているのか、と。

まあ、そんな父も年を追うごとにどんどん祖父そっくりになっていっているのだが。なんてことはない、これはただの家族間の同族嫌悪の連鎖でしかなかった。笑える。

 

話を戻す。父はよく、私に向かって「お前は祖父にそっくりだ」と言った。

実際その通りで、私もまた、ほら吹きだった。

ただし、祖父とはだいぶ種類は違っていた、とは思うのだが……。

 

私は物心ついたときから、滅多に父母に本心を語ったためしがない。やりたいこと、ほしいものを正直に言ったこともない。けど、なにかしでかせば叱られるので、保身のために必死になって言い訳をした。

 

「怒らないから正直に言ってごらん」なんて大嘘だ、と身をもって知っていたからだ。

 

 

今になって振り返ってみれば、私は望んで嘘をついていたというより、つかざるを得ないほど必死だったんじゃないかなあ、と思ったりもする。

そんなこんなで、とりわけ父母にはたくさん嘘をついた。自分を守るために。保身のために。それが結果として自分を追い詰めることになっていたとて、当時は気付けるわけもなかった。

両親にとっては嘘をつく子どもは失望の対象だっただろうし、実際私が保身のために口からぺらぺら語る言い訳は、事実と反するものだった。でも、自分を守りたい、怒られたくない、それはひたすら必死に、本心だった。

 

嘘の中には、そういう切実な「本当」が後押ししているものもある。

と、これも保身だろうか。

 

 

 

私たちはいつだって、小さな嘘を積み重ねながら生きている。

自分でも嘘だと自覚しないまま、口にしているかもしれない。

 

正直なところ、映画や舞台を見て、小説を読んでいても、自分の感情を疑うことが多々ある。

今、胸をしめつける感情は自分をだまして生まれたものではないだろうか?

いま流した涙は、「ここは泣き所だ」と思考して、自分を操って流したものではないか? つくりものではないだろうか? と。

 

間違いなく、衝動に突き動かされ沸き立ち、笑い、はしゃいで、歓声を上げる瞬間はたくさんある。

でも、そんな己のことすら「本当に好き? 本当に感動している?」と疑うことがしょっちゅうある。なんてめんどうな楽しみ方だろうかと自分でも呆れて笑ってしまう。

 

 

ブログには基本的に本心しか綴っていないつもりだが、かといってなにもかも赤裸々につづっていたら今回のようにどんどん深みにはまっていって、何が言いたいのかわけがわからない、抽出されたままの思考の羅列になってしまう。

だから私たちは言葉を選び、推敲してからこの世に文章を発信している。

 

これもまた、一種の偽りなのかもしれない。

 

 

 

そう思い、いっそ開き直ってやろうと私はこのタイトルを騙ることにしたのだ。

 

無意識の嘘。

 

うそをまったくつかないで済んでいる人間なんて、はたしてこの世にいるのだろうか?

そもそも、嘘をつくというのは悪いことなのだろうか。

そもそも、「本当」とはなんなのだろうか。

堂々巡りで、いつまでたってもわかりはしない。

 

嘘をついてくれた方が、多くの人にとって幸せなことだってある。

本当だけを語るのが、必ずしも良いこととも限らない。嫌な話だが。

 

ただ。今、肺いっぱいに空気が入って、清々しい気分で呼吸がしやすくて。心穏やかで、しあわせであればいい。そう思っていたい。そう思って生きている。

 

 

 

そういえば、automaticのmがなぜ蠍座の記号を使っているのかという話。至極単純、私の推しが蠍座だから。どこかになにか推しの要素をねじこみたくて、無理やりこじつけた。以上。

 

……さて、これは嘘でしょうか? 真でしょうか? 笑

そもそも推しが公開している誕生日は本物なのでしょうか。

 

言うてそんなところを偽る理由なんてないし、推しはそのへんが心配になるくらい、ぶっちゃけてしまうと馬鹿正直すぎる!! と頭を抱えたくなるほどドストレートなところがある人なので、疑うべくもない。はず。

 

 

あ、興味深い話を思い出した。

 

「自分の誕生日を覚えている人なんていない」という話だ。

 

胎児の頃からの記憶を保っている特殊な人々は別かもしれないけれど、それにしたって、生まれた瞬間は日付という概念すら知らないはず。自分が生まれた日に、新生児のまだよく見えていない目で、カレンダーや時計に表示された日付を記憶していることは難しい。まず無理だ。

 

誰も、自分の誕生日なんて覚えていない。知る由もない。

 

だから、親や家族が口にする、戸籍に記された数字。誰かしら何かしら、自分が信頼する人々が伝え、記録された日付を自分の誕生日と信じるしかない。という話。

 

誕生日を知っている、というのはそれだけで、この世に自分が生まれてきたことを祝福し証明してくれた誰かがいる、という一種の幸福なのかもしれない。

 

さあ、この話が引用された作品はいったいなんでしょうか?

知っている人ならすぐ気付くだろう。まんまパクリやんけ、と笑ってほしい。

ただ、この考えに触れたとき、なるほどなあ、と感心したのを覚えている。

 

 

生きているだけで、世界は疑わしいことばっかりだ。嘘ばっかりだ。

自分ですら自分で気付かぬうちに嘘をついていたりする。でも、その嘘が幸福なものであればいいのではないかと思う。

 

なにが本当でなにが嘘か?

 

 

 

「本心から」という言葉がある。

「自分の気持ちに嘘がつけない」なんて言葉もある。そんな人がいるらしい。

 

嘘が、本心から作られていたとして。

本心が、嘘から作られていたとして。

 

自分に、「本当のこと」とやらを言えない人がいたとして。

 

 

真実がいつだって優しいとも限らない。

しあわせな夢を見ていたい。

 

どこかに、そんな思いもある。

 

 

 

思うままに書き綴っていたら、もうあっちこっちに話が転がり、なにを話したかったのかもよくわからなくなってきた。

 

 

最後に。

繰り返しになるが、やはり私はこう言いたい。

 

私たちは誰だっていつだって、無意識に嘘をつきながら生きている。

そして、本当の思いも重ねながら生きている。

 

表裏一体、折り重なる層のように、織られていく布のように。

そうやって自分はできているのだと思う。

 

本当のことばかりがいつだって正しいとも、自分にとって幸せとも限らない。

 

 

ただ、胸いっぱいに空気を吸い込んで。清々しい気持ちになれて。ほっと穏やかに、幸せだと思えるのなら。

 

そこに、自分に優しい、都合のいい嘘があってもいいんじゃないだろうか。私はそう思う。

 

 

  ◆◆◆

 

 

そういえば、こんな話を聞いたことがある。

『真っ赤な嘘』というのは、自分のためにつく嘘。

『真っ白な嘘』という言葉があって、それは誰かのためにつく嘘なのだそうだ。

 

さあ、この話も嘘か真か。

遠い昔にどこからか伝え聞いた話なので、私にもわかりかねる。真偽を調べる気もない。

 

 

ただ、優しい言葉があるものだな、と思ったのを覚えている。

 

 

 

おわり。

 

2020/5/15